感受性・想像力・空想力なんかについて
私は小さな頃から感受性が強いと周りから言われていた。
私自身は小さな頃は「そうなんだあ。」と自覚も特に無かった。と言うよりも、自分の物差しと他人の物差しが違う事なんて考えられなかったのが正解だろう。
人によって格差はあると何でも言うけれど、どうなんだろう?私は育つ環境と本人の好奇心も少なからず関わっているんじゃないかと思う。
感受性を生むのは家庭環境や、外部とのいろいろな接触だと思う。本人にとっていろいろな意味でショッキングな出来事があれば、心に何かしら響くだろう。そこには新たな好奇心や、恐怖感などの今までに無かったものが本人に生まれると思う。それの繰り返しによって、性格なんかも決まってくるんじゃないかとも思う。
感受性なんかが強くなった要因として、今思いつくのは、小さな保育園時代のたくさん見たり読んだり母親に聞かされた本や絵本と、親父殿に連れて行かれた映画や両親が連れて行ってくれたいろいろな場所だったと思う。
見知らぬものを見て、聞いて、触れてそれを知らぬ間にどんどんいろいろな観点で感じていたんだと思う。それと、お約束な言い回しなのだが私は多くの愛情を注がれて大切に育てられたんだと思う。幸せ者なのは分かっているのだが、どこでこんなんになっちゃったんだか(爆)
今でも、私は感受性は強い方だと思っている。ただ、昔よりは質が変わっているような気がする。昔のように、素直に何にでも感動出来た自分がどれだけあるのか怪しい所。今は、考えるフィルターと性格的に頑固なくせに捻くれたのと天邪鬼な部分(笑)がそれを変えているのだと思う。今は大きさや、種類、ベクトルの方向なんかが分かるようになったと思う。
でも、変に小生意気な現実的にはならなかった。感動する気持ちは今も昔も変わりない。
これは私自身にとって良かったと思うし、変に変わらなくて良かったと思っている。
誰にでも言える事かも知れないが、感情のコントロールが小さな頃より出来るようになっていると思う。
今の自分からは想像出来ない、小学生の時は泣き虫だったり(笑)喜怒哀楽を表に出し、また、相手のその感情を敏感に感じ反応していた。まあ、自分にも相手に対しても正直だったと言う事かな。
今では、人の感情を受け止めたり察しがつく事に変わりは無いけれど、ぞれを表には出さないようになった。あからさま以上に出すのは笑う事くらいかな(笑)
大げさに言えば、言い回しなんかからもどんな事を思ったり考えたりしているのかも何となく察しがつく時がある。この時に気が付かないフリをしている時があるのは内緒(笑)
想像力については、やはり本から来たのが大きいと思う。後は密かにブロック遊びかな(笑)文字を自分の中で絵にする作業っていうと分かり易いのかな。そして、決定的だったのはTRPG。本当に想像力の力が自由度を高め、当て字ではないがその世界とキャラクター達を創造する。無限に広がる、そして、広がり続ける世界。違う自分になれるという一種の変身願望も叶えてくれていたんだと思う。
それも、時間の経過と共に変わっていった。
想像した違う側面の自分ではなく、創造された、自分で無いものに変わっていった。
それが、今いるチャオや他の沢山のキャラ達である。生みの親が私であって、扱う時は確かに私の主観が入ってしまうけれど、その本体は自由でありその本体の道を自由に歩んでいく。そうあるべきだと私は思っている。それだけに、私の想像力で生み出し、出来るだけの設定を考えている。愛情を持って生み出している。漫画を書いている人なんかはこの感情や気持ちを分かってくれるんじゃないかな。
設定を付けられたキャラクターとして生み出されたもの。として見れば私たちも同じ。時間と経験を積んで変わっていくものだと思う。
ただ、物語に終止符を自分で打たなければならない時は流石にきついものがある。
実際、感情が高ぶり過ぎて調子が悪くなったり、涙が出たりした事もしばしば。
人の人生と一緒でさまざまな経験を経て変わっていく。これからも沢山のいろいろな生き様を書いていったりしたいと思う。
こんな冴えない人間に生み出されてちょっと不幸かもしれないが、親は選べないと言う事で諦めてもらいましょう(笑)
私の今まで、そしてこれからの全ての感受性や想像力なんかを総動員して、誰かの心に少しでも何か感動やきっかけになる事を与えられれば良いと願う。
それが、私に出来るせめてもの家族達(キャラクター)への愛情であり、周りに居る人から受けたさまざまな恩恵への恩返しなのだから。